2012年10月27日土曜日

頼りにしています 石原慎太郎様

国民が選んだ民主党だけど、途中で半分壊れ
総理になる人に人物が得られず、
立派な人もいるんだけども、
先ず、内閣は総理を匹頭に、一日も早く
止めて欲しい、というのが
現在の国民の大部分の気持ちだろうと思う。

何も事が進まず、対中国、対韓国の
国境線の問題にしても、
総理は 手の打ちようがないように
私には見えてしまいます。

消費税をあげる事についても、
この不景気の中ではお客さまから消費税を
もらっても、その金を決算期に商人が国へ
支払わないというケースも多分出てくると思う。
私も先日、一年間の消費税を支払ったばかりですが、
本当に苦しい状態です。
私の経理士さんは厳しいので、
「何月何日までに支払う事。」と
はっきりきつく云われますので、先ず、消費税を
支払ってからと考えましたが、
中には支払わない事業者も多いという事を
耳にしました。
そうなると、消費税をあげても国家には
100%入って来ないでしょう。

もっと、他の方法を考えるべきだと思います。
このまま解散もせず、国の仕事はどんどん遅れ、
そうでなくても世界的不景気の中で、
どうなさるつもりですか?
いつまでも総理の椅子にしがみつかないで下さい。

石原さんは、80才。
もう若くはありません。
しかし、若い人の中に人物がいない現在、
石原さんなら野田総理よりは優れていると
私は思っています。
どんな形になるにせよ、
こんなに大きく世界の動いている中で、
日本だけ取り残され、国境線は押し進められ、
それでも何の手も打てない野田総理は、
一刻も早く辞めて欲しいです。
私は、トータルとして石原さんを選びます。

どんな形になるにせよ、
一刻も早く日本国家を立て直さなくては
日本人は現総理ではあまりにもみじめです。
石原氏にもクセがあると思いますが、
それでも 
“ 一日も早く態勢を変えてほしい ”
と大きな声で叫びたい思いです。












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2012年10月20日土曜日

人生は常にスタートラインに立つ その3

父が出征する3日前、夕暮れの波打ち際で
二人きりで話した時、私は、ふと思った。
父は、この海で又泳ぐ事が出来るのだろうか。
この海でなく世界中のどの海でも
泳げなくなるのではないだろうか。
私は、子供心になぜかふとそう思った事を
何十年経っても忘れない。

その時父が、
「智子は大学へ行ってしっかり勉強してくれよ。
お前なら一角の人間になれるよ。」と云った。
この言葉も私は、ずーと忘れずに生きて来た。
香川県でなら高松高女が一番だから、
高松のおばさんの家へ寄宿して、高女へ行こうと
思っていた。
ところが、その時教師をしていた尾島のおじに
「今、高女は空襲で焼けてしまい、元に戻すのは
時間がかかる。津田女へ行った方がいいよ。」
とアドバイスを受けたので、ならばとそう決めた。
受験準備らしきものも学校ではほとんど
してくれなかった。当時の受け持ちの教師は
この方面の力はなかったと、今にして思う。

そして受験当日。
筆記試験と口頭試問。かなり緊張した。
それでも、試験は終わり、発表までに1ヶ月位、
いや、それ以上の時間があったように思う。
私はその間、受かれば  受からなければ
どうしようかと悩みつつ、疎開して来ていた
千賀のおばに、お花とお茶と習字を
教えてもらう事にした。
お花は、それ以来ずーっと、おばが神戸へ
帰るまで10年間位習い、
“ 末生流奥伝 ”  までとれた。おかげで
(仏壇へお花を供える時でも、
自然に手が動くさまになる入れ方が出来る

そして、受験発表の日。
母が見に行ってくれた。受験番号は、18番。
母は、たまたまそこに知り合いの高島先生が
いたので、
「高島先生、うちの娘、受かっとるかしら?」
と聞いた。見れば分かるけど、
母はどきどきしながら聞いたらしい。
高島先生曰く「名前は?」と聞く。
「名和智子。18番です。」と云うと、
「あ、名和智子。一番で入ってますので
入学式の時、誓書を読みますよ。」
と云われた言葉を聞いて、
母は、ほっとするというか、うれしいというか
一番で入学できたので、「よかった、夫が
帰ったら喜ぶだろうな」と思いつつ家に帰り、
祖父と祖母に伝えた。

祖父は「そうか一番か、よかったのお。」と云い
祖母は「智子が受かるのは、分かっていた。
だけど、一番とはやっぱり智子らしいわ。」
云った。 妹・弟達にも話したけど、みんな
まだ、小さくてどんな反応をしたか
よく覚えていない。

入学式には、160名の新入生総代として、
誓いの言葉を読んだ。
物のない最低の時代だったので、
制服も黒の毛糸で編んだセーターを
着ていた子もいた。私は、古い着物を使って、
ちゃんとしたセーラー服を作ってもらった。
普段の日は、黒いネクタイ。
祝日登校の時は、白いネクタイと決まっていた。
今のように、祝日は休むだけでなく
式典があるので登校した時代。

私は、一年一組。
大森先生が、クラスの担当の先生だった。
先ず、教科書は古いのを調達して、いけない所は、
墨で黒く塗りつぶしたものだった。
国語の本沢先生は、教科書のないのを
逆手にとって、毎時間、古事ことわざを
黒板に10件位ずつ書き、その言葉の
成り立ちの説明をしてくれた。

 雨降って地固まる

 画にかいた餅

 得手に帆をあげる

 鳶が鷹を生む

 角をたてて牛を殺す    etc.

私は、この国語の時間がなかったら、
知らない事ばっかりだったと思う。
本沢先生に感謝する。

習字の時間だったと思う。
時間の始めに、一人一人名前を呼ぶ。
そして、樋端英子さんと呼ばれ、「ハイ。」と
返事をした時、先生が、
「樋端大佐とは、何か御親戚ですか?」と聞く。
樋端さんは、すっと立ち上がって、
「私の父です。」と答えた。
びっくりしたのは習字の先生。
「え?貴方のお父さん?」と。
私もびっくりした。それまで知らなかったから。

樋端さんも成績の良い友達で仲が良かった。
驚いたのは、教室の隅に置いてある
オルガンで何でも弾くので
「あ、家にピアノがあるんだな。」と位にしか
思っていなかった。
山本五十六の武官で、山本五十六と共に
南の空に散った有名な樋端大佐。
あれから、日本の敗色はいろ濃くなったのだ。
さすがだなぁと思い、仲良くしていたが、
一年生の終わりに、
「名和さん。私ね、母の実家のある東京へ
行く事になったの。お別れね。」
と云って、たった一年だけで津田高女から
去って行った。
 「又、いつかどこかで会おうね。」と
指きりして別れた。
しかし、「又、いつか」は、半世紀過ぎても
終に再会は、叶わなかった。

地方の高校だけど、疎開したり、
焼け出されたり、引き揚げて来たりした
優秀な先生にもおかげで会う事が出来た。
不幸中の幸いだった。

私達が二年生になった時から、
教育制度が、6・3・3制に変わった。
そのため。私達は、
大川女子高等学校併設中学校二年生になり、
次の年もその次の年も
後輩は入学してこない。
みんな、夫々の地方に新制中学校が
出来て、そちらへ入って行ったので。
三年目に晴れて高等学校二年生になった時、
地方の中学から、高校一年生が入って来た。
その時は、男女共学だから男子生徒も
入って来た。
学校の風景が変わった。
雰囲気も変わった。

一年下と云っても、男と女。
あの子素敵とかいう声もちらほら。
普通科と家庭科とあったので、
家庭科は女子ばかり。
人数の関係から、科目によっては
一年生と二年生が一緒に学ぶ
時間もあった。
小学校の時も男子組、女子組と
男女組というのがあったけど
その時の男女組とは全く異なる雰囲気で
なかなか出来る男の子や、いでたちの好い
男の子は、もてていた。又、その反対もあり。

私が、二年生の時、生徒会が出来た。
会長は、全生徒の投票で決める。
体育の先生が、「名和さん、立候補せよ。」と
云われるので、私は立候補した。
1名のところ、3名立候補し、選挙運動もあり、
立ち合い演説会もあった。
三年生からも一人出ていたので激戦だった。
私が、2位と4票の差で当選。
2位は、三年生の生徒だった。
それから一年間、生徒会長としても活躍した。
学芸会・文化祭などにも大活躍した。
今から考えると、若い先生との年齢差は
5年位。先生の方も、生徒を愛の対象として
見ていた様子。それに応えた生徒もいた。

私は、結局6年間在学した訳だ。
私は、弁論大会にも年に何度も出た。
県大会でもほとんど1位になった。
話す事にそろそろ自信みたいなものも
出て来た。 しかし、体育が苦手であった。
ある時、私が創作ダンスで[祈り]と題して
自作自演したのが、体育の教師の目に止まり、
体育も決して嫌いではなくなった。

6年間公私にわたって、私は大活躍した。
私と1年間でも一緒に学んだ人は、
みんな≪名和智子≫というのは知りすぎている。
楽しい、楽しい6年間だった。進学クラスに入り、
私は大学進学するつもりでいた。
だが、思はぬ事が起きて意のままにならず。
父の戦病死の報は、女学校一年生の時。
学校では、この上もなく活躍し楽しかったが、
家庭では、父を亡くした事で大変だった。

戦争のおかげで、私の人生航路に
くるいが出始めた。卒業も一番で卒業し、
今も、私の卒業式の答辞は、
学校に保存されているらしい。
60年以上も経っているのに。

さて、私は、どうすればよいか、思案に暮れた。








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2012年10月13日土曜日

『負けて勝つ』を観て

NHKドラマ『負けて勝つ』が終わった。
私は、仕事の都合で午後9時ピッタリには
観られないので、9時20分位から観ていた。

吉田茂は、昭和40年代に亡くなった方なので
私は、本物を知りすぎている。
ドラマの主役に、お気の毒ながら“一寸違うな”
感ずる事が幾度もあった。しかし
雰囲気は、ドラマとしてはよく出していたと思うが。

そんな事より、マッカーサー元帥が着任し、
事実上の日本国のトップになった。
東京をはじめ、全国各都市の焼け野原の中から
日本国を独立国にするには どうすればよいか。

直接は誰も分からなかった。
自分が生きるのに精一杯だった。
東京裁判があり、皇室の存在、
天皇陛下はどうなるのか、誰にも分からなかった。
そして、背の高い堂々としたマッカーサーと、
日本人の背の低い天皇陛下が並んで立った写真は、
全国民に大きな衝撃を与えた。

東京裁判も一段落し、とにかく日本人のトップを
誰にするかという事が難しかった。
皇室の人でもピッタリせず選び抜いた揚句、
吉田茂に一応落ち着いた。
しかし総理大臣と云えども、その上に
マッカーサーがドント座っている。
何を決めるのもマッカーサーなしでは進まない。
皇室の問題、憲法の問題、
外交は全てアメリカの 手中にあった。
(外務大臣は不必要)
セリフの中に
「こんな優秀な外交官を相手にするなんて難しい。」
マッカーサーに云はしめたほど、
吉田茂は、全知全能をかけて日本の独立へ向けての
キツイ、長い坂道を歩み続けた。

元々、この戦争にも反対論者であった吉田茂は、
外国の事を充分理解していた。
だからこそ、反戦論者だった。
昭和天皇とも、マッカーサーに会うチャンスを作り、
昭和天皇の本心の考え方をマッカーサーに
伝える事にも努めた。
日本から皇室をとったらどうなるか、
吉田茂は心得ていた。
一日も早く、独立させるべくあらゆる手段を講じた。
そこに、次郎という男が出てくるのだが、
これが白洲次郎で、吉田茂を陰に陽に助けた。

白洲次郎と云うと、すぐ思い出すのは、
テレビの中でも出て来たあの 長い長い長文の
独立宣言書の事である。
吉田茂は、英文で云うつもりだったが、
白洲次郎に一喝される。
「これから独立して、世界の中で
一人前になるというのに、その宣言を
なぜ英文で書くのか、書き直せ。」と
みんなに命じて急遽、紙と筆を用意して
手分けして日本語に書き直した。
長い長い巻紙の日本の独立宣言の文章は
ものすごい大きいトイレットペーパーか
と云われたりしたらしい。

それはともかく、このテレビは立派なものだと
私は思う。
日本がどのようにして敗戦国になり、
どのようして独立国を勝ち取ったか。
多分日本人の50才以下の人間は
ほとんど知らないと思う。

地球上に沢山国家はあるけれど、
みんな夫々好い国ばかりではなく
苦い苦しい思いをして成り立っている。
日本史も明治維新までは教科書で
習った人が多いと思うが、
肝心の現代史は、 
一寸おろそかになりすぎている。

過去の歴史を知らずして、
将来の展望は立てられない。

更に私が感じた事は、戦後復興させた
政治家は、みんな一流だと感じた。
それに比べて現在の内閣はどういう事でしょう。
何かの週刊誌の表紙に
《 このひどい政治家たち 》 という文章が
ありましたが、まさしくその通りだと
今回の『負けて勝つ』を観てその感を強くした。

心の底から日本の国家の事、国民の事を
考える政治家は、必ず何かを残してくれる。
どうでしょう、現在私は、一庶民ですから
これ以上は書きませんが、
もっと、もっとレベルアップしてほしいと
心から念じます。





吉田茂 像(東京・北の丸公園)











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2012年10月6日土曜日

土地は大切。しかし、それがすべてではない。

私は、20才代前半に夫と共に
誰の指導も受けず商売をスタートさせた。
その時は、日本国も上り坂。
やがて世界第2位の経済大国になる
直前の事であった。

又、夫は、次から次へとアイデアを
生み出す人だったので、何でも出来るという
自信とまで云えなくとも、やらねばならないという
意志の強い人で、ブレーキになるのは
10才年上の長兄一人であった。

しかも、生まれ育った土地でなく、
全く未知の横浜という場所で
仕事をはじめるには、不足する事が
非常に大きかった。
そういう向う見ずというか、恐れを知らぬ年代で
次から次へアイデアを具現化するのに
全く躊躇する人ではなかった。

業界の中に性格的に非常に合う人がいた。
一晩中話し込んでもまだ足りないという位、
次から次へと新しい考えを、まるで喜んで
子供が遊んでいるような姿であった。

50才代で病気になるとは思ってなかっただろうし、
30才代の頃は、未だ何度でも取り返しがつくと
考えていた。
そして、いつも今は大きな目的のための
仮の人生だ位に思っていたようだ。

私とすれば、自分の住居くらいの土地は
欲しかった。 特に、瀬戸内海の穏やかな海辺で
生まれ育った私の実家は、ここも,あそこも
こっちもあっちも自分の土地であるような
所だったので 。

東京の伯父の姑に力になってもらって、
いまの土地を借用した。
伊勢佐木町通りの店は、
戦後すぐ建ったバラックが並んでいたような
時代だったので、仕事が大きくなるにつれて
従業員も増えてくるし、どうしても店から
雨が降っても 走って帰れる位の場所で
土地を探した。
主人は、親からの資産を当てにして
金はあるのだからと思い、買いたかったらしい。
しかし、この一帯は、二人の大地主の
息のかかった土地ばかり。
聞けば借地というのも香川県で考えるのとは
大違い。ほとんどの人が借地店舗だった。
借地というのは、普通の事だと分かったけど、
それでも自分の土地が欲しかった。
又、当時のイセザキ書房の成績は、
その位の上り坂の時だった。

今、55年経ってみて、土地はすべての
基本になっているなと思わされる事に
度々出会う。
もう今更、私一人になって土地を買おうという
必全盛はなくなったけど。
香川県の土地とは比較すべきではないが、
自分の土地が一坪もないというのは
何かあると心を痛める。
駐車場の空きを気違いのように
歩いて歩いて探している自分の姿が
とても虚しかった。駐車場もほとんど
コインパーキングになってしまった。
あの方が、儲けがよいらしいが。
車一台の置き場所の事でオタオタする
自分自身を笑ってやりたい。










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