2013年2月23日土曜日

100才すぎても母は母

 甥の結婚式が大阪であって
最近、久々に横浜⇔大阪間の新幹線に乗った。
2度目かな・・・?
早い。そして、横浜と名古屋の間は 田園風景。
富士山がきれいに見えた。これも久し振り。
名古屋へ近づくと、ビル、ビル、ビル。
そして、又、京都までの間は田園風景。
京都へ入ると、一寸景色が変わり
大阪まであっという間であった。
大阪も何年振りだろう。

結婚するのは、兄の方。
弟は、私をリードして大阪まで同道してくれた。
華やかな結婚式で、私はもうびっくり。
新郎40才。新婦34才。
私にはピンとこないけど、今はそういう事らしい。

弟によく似た大人に成長していた。
私がこの前会ったのは、4才の時だった?
時間も長く、かなり疲れた。
盛大な披露宴だった。
終わってから、車で淡路島を通り
私の故郷、香川県さぬき市に入った。

淡路島のトイレ休憩にも、大きなスーパーが
24時間営業をやっていた。
夜だったので、周囲の景色が見えなかったのは
残念だった。これも私は初体験。

香川県さぬき市津田へ入り、
小さなホテルとまではゆかないが松林の中。
新しい小さな旅館に、下の妹と2人で宿った。
妹は、旅館業の経営者なのでさっさと事を運ぶ。
姉妹2人で、こうして並んで寝るのは
何十年振りだろうか。
もう、その頃から私の心情は、
ふるさと恋しさの情に変化していた。

朝食は、海の真向の景色の美しい食堂で
和食を頼んだ。
私が昔食べた懐かしい料理が並んでいる。
味噌汁も津田の味。
あぁ、この味だと思った。

上の弟(名和家の当主)が、車で迎えに来てくれた。
素晴らしい松林の中に、八幡様があり、
手を合わせて拝んだ。
子供の頃の祭りの様子がくっきりと
私の頭の中に浮かんでくる。

私がいた頃(昭和時代)は、砂浜がずーっと続いて
海水浴場として、夏はにぎやかだった。
もう砂浜はなくなって、護岸工事で
海から5米位の位置に道路が出来、
松の並木道になっていた。

あぁ、私が父と最後の語りをした砂浜は
なくなっていた。
私が子供の頃、山口町、本町と云って
商店の並んだ道路があったけど
日曜日だという事でみんなお休み
一寸残念だった。

私は13年振りの帰省だけど、
結婚して60年近く経つ間に5回しか来ていない。
それも用事を済ませ、一晩宿って翌日
飛行機で帰っていた。

お墓に参ったのは、60年振り。
みんなきれいなお墓に変わって、
私一人では分からなかっただろう。
玉石をきれいに敷きつめて、三本の墓が
きれいに並んでいた。

あっちもこっちも見たかったけど
ほとんど昔の姿は消え失せて、
小ぎれいな新しい家に建ち変わっている。
こんな所で家庭の主婦として生きた方が
幸だったかなと思ったりした。
専業主婦を一度もやった事がない私としては
羨ましく思った。

私の生まれた家。
建ってすぐ生まれたので、私と同い年。
79年も経っているとは思えないほど
しっかりと輝いていた。
外まわりも、家の中も、非常に使い勝手良く
改築したり建て増したりして、実に合理的な
住居になっている。

そして、101才の母が待っていてくれた。
「智子が来るなんて信じられなかった。」
さもあろう。
私は、結婚後60年間の間に、10日間位も
来ていないのだから。そして、私を見るなり
「智子。そんな横しまのスーツなんかより
縦しまのにすればいいのに。」
私がデブ子さんだと云う事なの!?
「口紅ももっと明るい色をつけた方がいいよ。」
もう歩く事も出来ない母だけど、
長女の娘を目の前にすると、私が若い頃
よく云っていた事と同じセリフ。
「胴を丸くしないで、背中をすっとさせた
ほうがいいよ。」
私は、腰痛をかばうために、前かがみに
なってしまうのだけど、娘時代の時と
同じセリフを云うので、私は参った。
101才でも、79才の私は、母にとっては娘なんだ。

女・女・女・男・男と、5人の子供を産み育て、
30才一寸で 未亡人になり、
しゅうと、しゅうとめにしっかり鍛えられ、
休む暇もなかったと思う。
休めるようになった時は、自分の足で歩けない。

10人以上いた兄弟達も、全部死んだ。
去年、一番下の弟(私の伯父)が亡くなった時は
かなりショックだったようだ。
友達も大勢いたけど、みんな亡くなってしまった。
せめて5人の娘・息子が元気なのが唯一の
生き甲斐らしい。

私は、普通に話せる母と会えるのは、
もう最後かなと思ったりもしたが、
又、反面、あれでしぶとく生きてくれるかも
分からないとも思った。
5人の兄弟姉妹、全員で会えたのは60年振り。
遠くへ嫁がせるのは、嫌だという人の気持ちも
分かった。
私の心情は、未だ半分ふるさとの余韻が
残っている。
私は、私の道に早く戻って、仕事に励むべし
と誓いつつ。


 










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2013年2月16日土曜日

急ぎ過ぎたね、江副浩正さん。

私が結婚して30年余経っていた頃。
私の年令も50才過ぎていたが、
家庭に1台しかないテレビも自由に
観る事は出来なかった。
夫は、いつ寝て、いつ起きるか
分からないような生活をしていたし。

夫の好きな番組は、どんどん観られるが
私にはチャンネル権が全くなかった。

夫が眠っている間に長ーいイヤホンを
つけて、私の部屋まで引っ張ってきて
(画面は私の部屋で観られるので)
観ていた。

そんな時期のある正月の番組に
江副浩正リクルート社会長と内橋克人と
もう一人はテレビ局の人だったと思うが、
対談があった。

何の気もなく夫の留守を幸に
私はそのテレビを観た。
江副浩正と云っても、私はよく知らなかった。
内橋克人は、2・3位本を読んでいた。
観ているうちに、だんだん魅きつけられ
最後まで観た。

何が私を魅きつけたのか
今ではよく分からないが、江副浩正という
人物が人並み優れたつわものだという事に
珍しかったのかも分からない。

きっと、財界のスターになる人だろうなと
強烈な印象を受けた。
当時は、景気の良いバブル最中だった。
初めて観た江副浩正に魅せられた。

知人にもりクリート社へ勤めていた人もいた。
その人もなかなか立派な人だった。
又、住宅雑誌でも読売から出ていたものを
つぶしてしまう程、リクルート社のものが
よく売れた。
私の心の中には、江副浩正という人は、
理想の財界人の卵だと写っていた。

暫くして、リクルート事件と呼ばれる事件が
ニュースをどんどん華やかにするほど
有名になった。
各界の上層部の人に、リクルートコスモス社の
未公開株を、次から次へとばらまいた。
出世を急ぐというか、早く一流人になるための
一つの方法だったのだろう。

そしてその株が上場され、もらった人達は
大物ばかり。沢山の利益を得た。
詳しくは覚えてないが、世間を大騒ぎさせた事は
覚えている。その後、江副浩正という名前は、
ほとんど出なくなった。

2月9日のネットに、江副浩正の亡くなった事が
出ていた。翌2月10日の日経新聞では、
“春秋”というコラムの欄に出ていたのみ。
執行猶予付きの有罪が確定してから
ちょうど10年。
もし、こういう早業をやらずに
通常通りの道を歩んでいたら、
きっと、一流の経済界の大物になっていたと
思う。

リクルート出身の優れた経済人は何人もいる。
しかし、本人は汚名を残したまま亡くなった。
私の心の中には、あんなに優れた人を
むざむざ社会の悪人として死なせてしまった事が
とても心惜しい気持ちでいっぱい。

人間の人生は、真っすぐな道を道なりに
歩んでゆけば、どんな人でも何かが出来る。
急ぐ事はなかったのに。
普通にやっても充分出来た人だったのに。

私は、独りで日経新聞のコラムを何度も読んだ。
そして、江副浩正という才ある人が
道を急ぎ過ぎた事を、とても残念に思っている。







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2013年2月9日土曜日

国家に殺された私の父

電灯をおろして父に手紙を書く。
心配するなと文したためる。

父は、私が小学校3年、妹1年生
妹幼稚園、弟2才、弟0才の時に
召集兵として出征した。33才。

未だ内地にいた時に、
近くの旅館気付でハガキを出した。
妹は、毎日のように書いていたと思う。
それだけが父との繋がりだと思うと
書かずにいられなかったのだと思う。

コピーのコピーで分かりにくいが、
私には、父の心情が胸を打つ
ハガキである。沢山のハガキの中から
一枚とりあげたけど、
父は生きて再度我が家に帰れる事を
最後まで信じていたと思う。

























家族の事、みんなの事を夫々書き、
父の家族への思いは
もう70年以上も経った今、これを読むと 
私は、涙が出て止まらない。
召集兵は沢山、戦死・戦病死・
野垂れ死にした。
食べ物も飲み物も兵器も、
何も持たさずにフィリピンにまで
送り込まれて、ほとんどの人が死んだ。

何という無謀極まりない戦い方を
命じた人は誰だ!
事の成り行きとは云え、
日清・日露に勝った勢いで
大東亜共和圏とか云って、アジアを
全部植民地化しようとしたのか?
それとも、石油等原材料欲しさに
手を伸ばしたのか?
それにしても、外交下駄丸出し。
又、欧米のすべての面で
進んでいる事を充分研究していなかった。

今から、云っても仕方がないが、
靖国神社は、死ぬ事を承知で帰りの
油のない飛行機に乗った、
うら若き青年達の心の拠り所であったのを
私は子供ながらに知っていた。
その人達を裏切った人間を一緒に
靖国神社に祭るのは
私は納得できない!

東京裁判を基準にして
戦争を始めた人・指揮した人の霊は
すべて靖国神社からはずして欲しい。
さもなくば、本心で死んでいった人が
かわいそうです。

私は、泣いても泣いても事はおさまりません。





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2013年2月2日土曜日

総理の表情

 私は、総理大臣の顔を観るのが大好き。
素顔を観る事は出来ないが主としてテレビ。
それから、新聞や雑誌の写真。

恰好良いからとか、美男子だからという
観方ではない。
総理になるほどの人だから、我々よりは
うんと優れていて当然。
姿形を観るのではない。

強いて云えば、総理大臣のテレビの中の
顔から、私は今、この総理は何を思っているの
だろうか?と探りを入れるのが一番の気持ち。

演説と云ったって、原稿用紙にリズムをつけて
読むだけなんだけど、それでも声の調子、
登壇する時、去りゆく時の姿は
演説以上に本心が私には読めてしまう。
又、他の人のスピーチを聞いている時の
表情。これは言葉以上にものを云っている。

私達、日本人の幸不幸を決めてしまうような
≪ アベノミクス ≫ (誰が云い出したのか
知らないけれど)にお任せしていて
この先、国民は幸福になるのだろうか?
一部の金持ちは、何何ミクスであれ幸せだと
思う。

問題は、大部分の大衆が、希望を持って
生きられるような日本国にしてもらえる
のだろうか?
就任当時よりやや元気がないなと、
私は今、思っている。
就任演説も、もっと事細かく、分かり易く
もっともっと国民に呼びかけて欲しかった。
あっという間に終わってしまった。

総理の仕事は、肉体精神共に大変な、
云うなれば、労働だと思うので、
疲れるのは無理もないけれど、
そんな事に負けないだけの
体力、気力、そして知力が必要です。

これから消費税も上がる。
物価も上がる。
インフレがデフレより良いとは
云えない。

私は、60年間、社会に波に洗われながら
インフレの怖さも知っている。
株が上がった、円が下がった、と云って
喜んでばかりはいられない。

国民も悪知恵ばかり発揮しないで、
敗戦直後の頃の国民のように
国を支えるために、努力・努力をしなくては
ならない。
総理も国民も一体となって
日本国を「東洋に日本あり」
云わしめるように頑張りましょう。

戦後の苦しさ、喜びを知っているのは
私の年令以上の人。
だんだん亡くなってゆく。
歴史の本の中に詳しく書いておくべきだ。






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